生涯
ドロシー・リー・セイヤーズの生涯
- 誕生と両親
ドロシー・リー・セイヤーズ(Dorothy Leigh Sayers)は1893年6月13日にイングランド東部オックスフォード(Oxford)のブリューワー・ストリート(Brewer Street)のヘッドマスターズ・ハウス(Headmaster's House)で生まれた。セイヤーズ家は有名なトム・タワーの鐘の音が聞こえる距離にあり、これが後の代表作『ナイン・テイラーズ』のヒントとなった。
父はヘンリー・セイヤーズ(Henry Sayers)。母はヘレン・メアリー(旧姓リー)(Helen Mary Leigh)で、彼女はネル(Nell)という愛称で呼ばれた。ドロシーは2人の間の一人娘であった。最初のブリューワー・ストリート1番の家には、現在でも"Dorothy L. Sayers / Writer and Scholar / was born here / 13 June 1893"と書かれた青いプラークが掲げられている。
父ヘンリーは古典学者でスポーツマンであった。アイルランドにルーツをもち、オックスフォードのモードリン・コレッジではアイルランド出身のオスカー・ワイルドと共通の友人をもった。その後、クライスト・チャーチ・クワイア・スクールで教鞭をとり、同時にクライスト・チャーチ大聖堂の牧師も務めた。ヘンリーは作曲をするほかヴァイオリンも弾く、音楽家でもあった。ドロシーがピアノとヴァイオリンを学んだのも、この父親の影響であった。彼女の音楽好きは長く続き、これは彼女の信仰心と関連していたと言われる。また、ヘンリーは長身で、ドロシーが当時の女性としては高身長だったのは父親ゆずりだと考えられる。
母ヘレンはフレデリック・リー(Frederick Leigh)の娘で、知的でユーモアのある人物だったとドロシーが述べている。ヘレンの祖先はワイト島の出身で、ヘレンはパーシヴァル・リーの姪であった。パーシヴァル・リーは風刺雑誌として有名な『パンチ』(Punch)の創刊メンバーである。ドロシーはパーシヴァル・リーの子孫であることを誇りに感じており、ドロシー・セイヤーズとリーを抜かして呼ばれることを嫌った。ドロシーの文才は母親ゆずりだと言われている。
こうしたごく幼い頃の記憶はドロシーの中に長く残り、後の作品に少なからぬ影響を及ぼした。
- 幼少期
ドロシーが4歳のとき、一家はイングランド東部のブランティシャム(Bluntisham)に移住した。当時ブランティシャムは人口900人の小さな町で、農園で働いている者が多かった。ドロシーは叔母のモード(Maud)と一緒にインコを籠に入れてここに到着したという。このときセイヤーズは"Look, Auntie, look! The ground is all yellow, like the sun."と叫んだという。(Hitchman, P.6.)
ドロシーは幼い頃は学校には通わず、家で家庭教師から教育を受けた。その家庭教師ミルドレッド・ホワイト(Mildred White)はフランス人の有能な教師で、ドロシーが15歳のとき家庭教師として雇用され、ドロシーにフランス語を教えた。一方、父のヘンリーがドロシーが6歳のころラテン語を教え始めた。ドロシーが15歳になると、将来オックスフォード大学で学ばせるためにドロシーを学校を通わせることを両親は考える。そして、ドロシーはゴドルフィン・スクール(Godolphin School)で学ぶことになる。ここで、首の長かったドロシーは「スワン」(swan、白鳥)というあだ名をつけられた。ドロシーは同じ年頃の女性が関心を示すもの―ヘア・スタイルや服装、パーティ、男の子の話―には関心を示さなかった。
1909年、幼稚園児たちの劇Cock Robin and Jenny Wrenについてドロシーが書いたエッセイが学校の雑誌に掲載される。セイヤーズの文章が公になったのはこれが初である。同年、セイヤーズは学校の最上クラスに入り、翌年学校のオーケストラに参加し、ヴァイオリンを演奏。Ten Dancing Princessesという劇にPrincess Graciosa役で出演している。しかし、学校で麻疹が流行し、ドロシーも罹患する。これを契機にゴドルフィン・スクールを去ることになるが、彼女の成績は優秀で、とりわけドイツ語とフランス語に秀でていた。15歳になる頃にはセイヤーズはフランス語に堪能になっていたという。
- オックスフォード時代
1912年、セイヤーズはGilchrist Scholarshipという奨学金を得て、オックスフォード大学のサマーヴィル・コレッジ(Somerville College)で学び始める。このコレッジは1879年に女性が高等教育を受けるための施設として設立された。大学の友人によれば、セイヤーズは元気な学生で、赤いリボンを頭に巻き、オウムの入った鳥籠型のイヤリングをして、マントをひらめかし、パイプをくゆらしていたという。(エドワーズ、P.40.)
活動的なセイヤーズは入学した年に同じゴドルフィン・スクール出身のAmphyllis MiddlemoreらとともにMutual Admiration Societyというクラブを組織し、毎週会合をもった。クラブの名称を決めるなど、セイヤーズはこの組織で主導的役割を果たした。このクラブでの友人が後々までセイヤーズに影響を与え続けることになる。例えば、後のセイヤーズの劇に協力することになるMuriel St. Clair Byrneもこのクラブのメンバーだった。このグループでは本を音読するなどの活動をしていた。セイヤーズはこの他のクラブにも積極的に参加し、例えばRhyme Clubにも参加していた。これらの活動はすべて後の創作の糧になったと想像される。
1914年には大陸旅行をするものの、第一次世界大戦が勃発し、帰国を余儀なくされる。戦争に伴い、サマーヴィル・コレッジの建物が戦争のために使用されることになり、セイヤーズや他のコレッジの生徒たちはOriel Collegeが用意した施設に移動した。ここでセイヤーズたちは快適な時を過ごした。1915年にはフランス語で優秀な成績をおさめる。また、この頃、ミステリを読み始める。伝記作者でセイヤーズの友人だったバーバラ・レイノルズは1915年から1921年までをセイヤーズの最も多産な時代だと述べている。
しかし、大学時代にはあまり良い思い出はなかったのかもしれない。大学在学中は大学を楽しんでいるようであったが、1929年の書簡ではオックスフォード大学は嫌いで思い出したくもない、と述べている。(Letters Volume 1, P.291.)これはオックスフォードの学寮祭に行くことになったことを受けて書いた手紙で、このときの経験が後の作品『学寮祭の夜』に反映されている。
1915年、セイヤーズは女子高校で現代英語を教える職に就く。1917年まで教師を続けたが、生徒には人気だったらしい。ただし、セイヤーズは教師という職は合わなかったらしい。この間、1916年には初めての詩集を発表している。
1917年、父ヘンリーがクライストチャーチの教区牧師に就任し、一家はクライストチャーチに引っ越す。彼女の代表作『ナイン・テイラーズ』はクライスト・チャーチを舞台としている。また、ウィムズィという名前もクライストチャーチを流れる川の名前に由来する。セイヤーズはクライストチャーチを「神がつくった最後の土地」(the last place God made)と呼んでいる。彼女は教会の建物を愛した。(Hitchman, P.29.)
その後、セイヤーズはオックスフォードの出版社ブラックウェル社で働き始める。具体的には校閲や原稿の下読みに携わった。ここで彼女はエリック・ウェルプトン(Eric Whelpton)に出会い、恋をする。退役軍人のウェルプトンは戦争の後遺症に悩まされていたが、彼がピーター・ウィムズィのモデルの一人となった。しかし、結局この恋愛は報われなかった。
1920年、大学から学士と修士の学位を受け、オックスフォードから学位を授与された初めての女性の一人となった。その後、ヴィクター・ゴランツ社(Victor Gollancz)で働くようになるが、後にこの出版社から多くの本を出版することになる。セイヤーズが扱った作家にA.M. Burrageがいたが、彼を通して後に夫となるマックと知り合った。
- 恋愛、出産、結婚
1921年、作家で翻訳家のジョン・コーノス(John Cournos)と出会い、セイヤーズは恋に落ちる。コーノスはロシア系ユダヤ人であった。セイヤーズは彼との結婚を望んだが、叶わなかった。セイヤーズは寂しさをまぎらわすためにウィリアム(ビル)・ホワイト(William (Bill) White)との間に子供、ジョン・アントニー(John Anthony)をもうける。しかし、父親が誰かは長い間秘密にされた。(この事実が明らかになったのはセイヤーズ死後のことであり、セイヤーズの両親ですら娘が出産したことを最期まで知ることはなかった。)ビルは既婚者であったが、妻との間に子供に恵まれていなかった。セイヤーズはビルの妻が子供を引き受けてくれることを望んでいたようだ。セイヤーズの未完の小説Cat o' Maryは子供を産むことへの彼女の心情が表わされているとされる。結局、ジョン・アントニーの面倒はセイヤーズのいとこのアイヴィー・シュリンプトン(Ivy Shrimpton)が担うことになった。
なお、バーバラ・レイノルズの伝記によれば、セイヤーズは子供が嫌いだと述べていたが、コーノスとの間には子供を望んだようだ。
1925年、セイヤーズはオズワルド・アサ―トン・フレミング(Oswald Atherton Fleming)という離婚歴にある男性と出会い、結婚する。夫は「マック」(Mac)と呼ばれた。夫婦はロンドンのグレイト・ジェイムズ・ストリート24番の小さなフラットで暮らし始める。この結婚によってセイヤーズの名前は法律上はドロシー・フレミングになったが、仕事のうえでは旧姓を使い続けた。
1921年ころ、セイヤーズは初めてピーター卿ものの創作に着手している。
- コピーライター時代
1923年、セイヤーズはロンドンのキングスウェイにあったインターナショナル・ビルディングに入るベンソン社(S.H. Benson)という広告会社でコピーライターとして働き始める。ベンソン社は当時イギリスで最も成功した広告会社であった。セイヤーズは1931年までこの会社で働いたが、ここでの経験が後の創作活動に大きな影響を与えた。『殺人は広告する』がその直接の成果であるが、それだけにとどまらず、英語が世界で最も豊かで、高貴で、フレクシブルな言語であることを知ったのもコピーライターとしての仕事を通してであったとセイヤーズ自身が述べている。(Duriez, P.103.)また、"It Pays to Advertise"という有名なスローガン(『殺人は広告する』にも登場するフレーズ)にはセイヤーズの名前もクレジットされている。
ベンソン社の同僚にアルバート・ヘンリー・ロス(Albert Henry Loss)がいたが、彼はFrank Morisonのペンネームで作品を発表する作家でもあった。キリストを扱ったロスのベストセラーWho Moved the Stoneは後にセイヤーズが宗教劇を書くうえで参考になった。また、ここで後にゴランツ社という出版社を設立することになるヴィクター・ゴランツと出会い、ゴランツが出版社を設立したら、そこから本を出すようにセイヤーズと約束した。後にこの約束は果たされ、ゴランツ社はセイヤーズの版元となる。
ベンソン社でのサラリーはよく、セイヤーズは教師時代よりも多くの収入を得ることができた。セイヤーズが関わった仕事としては芸術家ジョン・ギルロイ(John Gilroy)とともに行ったColeman社の’The Mustard Club’の宣伝と、1928年に始まったギネス社のビールのキャンペーンがある。
結局、コピーライター時代にセイヤーズは4冊のピーター卿シリーズの長編を発表しており、充実した日々であったと思われる。セイヤーズは広告会社での仕事を楽しんだようだ。
なお、1930年、セイヤーズは夫マックとともにエセックスにあるウィザム(Witham、セイヤーズの母親と姉のメイベルが住んでいた)に移り住み、残りの人生の大半をそこで過ごした。ここには現在セイヤーズの銅像が設置されている。
- ディテクション・クラブの結成
イギリスのミステリ作家の集まり、ディテクション・クラブ(Detection Club)が1928年から翌年にかけて結成された。(一般的には1930年に結成されたとされている。)初代会長はG・K・チェスタトン。他にジョン・ロード、アガサ・クリスティ、ロナルド・A・ノックス、R・オースティン・フリーマン、E・C・ベントリー、A・A・ミルン、バロネス・オルツィらが参加。セイヤーズもこれに参加した。
ミステリ作家同士の親睦を深めるのはもちろん、謎解き本格ミステリを守り、維持するという目的もあり、謎解きにおけるフェア・プレイの尊重などを重視する組織であった。入会には厳しい条件があり、また秘密結社めいた入会儀式があったともされ、クラブのこうした性格にもセイヤーズが大きく関わっていたとされる。ディテクション・クラブについては、その秘密主義的性格が災いして、現在でも不明な点も多い。
このディテクション・クラブを中心に『漂う提督』『警察官に聞け』などのメンバー同士による合作リレー作品が発表されている。また、BBCラジオのシリーズThe Scoopの準備を開始する。これにはアガサ・クリスティやF・W・クロフツ、E・C・ベントリーなど他の有名ミステリ作家も参加している。これは1931年の1月から4月にかけて放送された。
- 劇作の開始、ラジオ・ドラマの時代
1935年、学生時代からの友人ミュリエル・セント・クレア・バーン(Mueriel St Clare Byrne)の協力を得て、舞台劇『大忙しの蜜月旅行』の準備を始める。翌36年、この作品はロンドンのウエスト・エンドの劇場で上演され、好評を博し、9カ月間上演は続いた。37年には戯曲The Zeal of Thy Houseがカンタベリーで上演される。これはT・S・エリオットの『大聖堂の殺人』がヒットしたことを受けての仕事で、12世紀の建築家、サンスのウィリアムを題材とした物語だ。この頃からセイヤーズは劇作に力を入れるようになる。39年にはファウスト伝説に取材した劇『悪魔の報酬』(The Devil to Pay)が、40年にはLove Allが上演されている。
伝記作者でセイヤーズの友人だったバーバラ・レイノルズは、カンタベリーでの経験が「新しいドロシー・L・セイヤーズ」をつくったとしている。この後セイヤーズは「公人」(public person)になり、権威を帯びるようになった。ミステリについてはこれ以前から権威であったが、この後その他のことでも意見を求められるようになり、とりわけキリスト教の教義についての彼女の意見は影響をもつようになった。
セイヤーズがBBCのラジオ・ドラマ・シリーズに関わり始めたのは1930年のBehind the Screenが最初で、翌年のThe Scoopがこれに続いた。さらにはThe Man to be Kingの執筆を開始し、セイヤーズはその活躍の場を広げている。
なお、伝記作者のColin Duriezはこの頃から戦争の影響でセイヤーズの作品はカタストロフィ後の救済、希望、ハッピー・エンディングの性格を強めていった。(Duriez, P.171)
1935年、セイヤーズは『サンデイ・タイムズ』誌にミステリの書評を始める。これは長続きしなかったが、鋭い批評眼を披露している。例えば、ミステリには筋(プロット)と文体(スタイル)の両方が必要で、両方揃ってミステリであると述べている。
- ダンテの翻訳、第二次世界大戦
『大忙しの蜜月旅行』を最後にセイヤーズはミステリ執筆への情熱を失っていく。戦争のため、推理小説を読みたがる人は少ないだろうとも考えていたという。一方、1943年に友人チャールズ・ウィリアムズのThe Figure of Beatriceの書評をSunday Timesに書いたことから、セイヤーズはダンテへの関心を深めていく。その原因はやはり戦争と、戦争によって荒廃した国土を目にしたことであると推測されている。セイヤーズによるダンテの翻訳は学者向けではなく、一般読者向けのもので、最初の『地獄篇』が出版された時は不評であった。この翻訳は現在でもペンギン社のペーパーバックで利用できる。1946年から亡くなる1957年にかけて、セイヤーズはダンテに関する講演を数多くこなしている。セイヤーズがダンテについての講演を初めて行ったのは1946年8月、ケンブリッジにおいてであった。
セイヤーズはキリスト教の劇を書くにあたって欽定英訳聖書(Authorized Version)とギリシア語の聖書を繰り返し読んだ。
1939年に勃発した第二次世界大戦中、セイヤーズはドイツ軍による空爆に苦しんだ。ロンドンのグレイト・ジェイムズ・ストリートの家を放棄し、マックとともエセックス州のウィザム(Witham)に引っ越し、亡くなるまでここに住むことになる。なお、空爆を逃れてシェルターに逃れる時、セイヤーズがシェルター内で読むために手にした本はダンテの『地獄篇』であった。
なお、ピーター卿の短編「顔のない男」には第一次世界大戦について次のような記述がある。「この前の戦争のおかげで、この国の何万という男は、精神の均衡を失って、どうも不安定になっているらしい。戦友たちが爆弾で吹き飛ばされたり、銃弾で蜂の巣にされたりするところを見てきたんです。恐怖と流血の五年を過ごしたおかげで、何かこう、残酷なことに対して、心が歪んでしまったんですな。表向きは、何もかも忘れて、普通の人間と同じように穏やかな暮らしを送っているようですが、それはうわべだけなんです。」(宮脇孝雄訳、創元推理文庫『顔のない男』11~12ページ)
- 晩年
1950年、セイヤーズはダラム大学から名誉博士号を授与される。同じ年、夫のマックが長年の大量飲酒が原因の卒中で他界する。夫の死後、セイヤーズはロンドンのブルームズベリーのフラットでより多くの時間を過ごすようになった。必然的にロンドンの友人と過ごす時間も増え、戦争で破壊されなかった建物をキリスト教について話し合う場所にしたいと考えるようになった。その結果、聖アン教会を中心に、St Anne's House, a Centre of Cultural Studiesが設立され、セイヤーズはこれに深く関わった。
50代後半になっても、劇『コンスタンティヌス1世』の上演や、ディテクション・クラブの仲間との共作に関わったり、翻訳を出版したりと、セイヤーズは精力的な活動を続けた。
1957年12月17日、セイヤーズはウィザムの自宅の階段下で死亡しているのを発見された。68歳だった。彼女の遺体はクリスマス・プレゼントに囲まれていたという。息子ジョン・アントニーが唯一の相続人だった。追悼式ではヴァル・ギールグッド(ラジオドラマ『王に生まれついた男』をプロデュースした)とシリル・ヘアーが弔辞を読み、C・S・ルイスもセイヤーズを称える言葉を捧げた。ジョン・アントニーはセイヤーズの体を抱きしめ、"Thank God you've come"と言ったという。セイヤーズの遺灰はSt Anne's Houseに収められた。
1962年、未完で終わっていた『神曲 天国篇』の翻訳が友人のバーバラ・レイノルズの手によって完成される。1973年、チェコの天文学者ルボシュ・コホーテクによって発見された小惑星が、「小惑星3627セイヤーズ」と名付けられた。